私が初めて日本画を学んでから今年でちょうど20年目。いまだ自分の思考や思想を作品にあらわすことは難しい。 新しい画材を試しつつ毎回試行錯誤の日々。日本画画材は値も高く沖縄では容易に手に入らないのだが、 岩絵具の豊富な色域と鮮やかさ、絵を描く時の所作がとてつもなく好きでたまらない。日本画に出会って本当 によかったと思う。絵だけで食べていけるほど私には才覚がない。ただやりたいことを愚直に続けることができただけだ。今、私が絵を描くのをやめても周囲に惜しむ人はいないだろう。けれどそんなのは関係ないと思えるほど創作するのは面白い。周りからたくさんの刺激を受けながら、次はこうしようああしようとアイディアが沸い てくる。耕して、種を撒き、葉が茂り、花が咲き、実が成り、種に還る。いま私はどの行程にいるだろうか。 
インターネットでいつでもどこでも「繋がる」時代になった昨今だが、やはり五体をつかって「見る」「聴く」「嗅 ぐ」「触れる」「味わう」ことが大事なのだと実感する。自然の中に身をおいていると自分もその一部として「 融解する」ような感覚になることがある。この感覚をあらわす言葉を探ってみると仏教用語「一即一切」「一切 即一」に行き当たった。一つの個体は全体の中にあり、個体中にまた全体があり、個体と全体はお互いに即し ている、、、大きな「一」の中に無数の「一」があり、その「一」と「一」はおなじものだという考え。 自分の中に 漠然と感じていたおもいが雫になってポツンと頭に落ちてきた様だった。東洋哲学におもいを馳せる。いくつに なっても学びは大切だ。世の理に限らず探求するのに「Art」はこれほど最良なものはないと思う。
 昨今、日本や世界にまとわりつく靄(もや)のようなものは、人々が「分け隔てる」志向に傾倒してきた現れに 感じる。差別や偏見、侮蔑等の感情の毒が連鎖的に広がり否応になく吸う羽目になる。毒を吐いている自身も侵されていることに気付かないのが よりたちが悪い。平気で嘘をたれ流し、ごまかし、埋めてなかったことにする。 正面から向き合うことをやめた大人達に未来を「そうぞう」することはできないだろう。 人種、国、民族、性別、障害に疾患等々、隔りを無くそうとする動きに反発して維持したいものの動きが津波のように押し寄せる。平等に権利は拡大するはずなのに、特権にしがみ つき、手を伸ばす人々を蹴落としたいものたちがいる。諸行無常の世の中にただただ安心が 欲しくて、半径 1m の MY 世界から他者の足を引っ張り続けている。そんな人達に鏡をプレゼントしたい。是非自分との対話からはじめてほしいと思う。
「あたえられる」ことに慣れた社会は「想像力」を失うのだろうか。「想像力」を豊かにする芸術科目は小・中・高校の授業から削られる傾向の様だ。教育の分野で「こころ」を育てることがあまりに放置されていないかと 思うことがある。「同じでもいい、 違っててもいい」を許容できる世界をつくっていくにはどうすればよいか、、、 「全は一、一は全」が真理であるならば、逆行しつつある現世はまたもや傍若無人に無惨な犠牲を弱きものから強いていくだろう。暗澹たる気持ちになる。靄はいっこうにはれる気配がないからだ。
海のもの、山のもの、陸のもの、全ての生命は循環の中にあり、生命は等しく尊い。互いに響あって生きている「 命( ぬ ち )ど ぅ 宝 」なのだ 。この世は人だけが生きているのではない。そんなあたりまえを忘れてはいないだろうか。自然の中に身をおいて感じる事 は、自然は常に懐深く何ものをも受け入れる余地を残していることだ。それが毒であったと しても、消滅、再生を繰り返しながら、自らを変化させることで受け入れてきた。 私たちもそれができるのではないか。乾いた心に鍬をいれ、感情を耕していこう。音を受け 入れ、知識を浴びよう。風にのってやってくる文学達に酔いしれよう。他のものを受け入れ るスキマが内なる森にあることは大切で、他者の森へ飛び込んでいく勇気もまた大事だ と、思いつつそれは私も実践できていない。従来の鈍感力を発揮しどころなのだけど(苦笑)。 
枝 1 本 1 本は細く弱くとも幾重にもなれば岩のごとく重雪にも耐えられるように、 やわらかい森が世にひろがればより柔軟で寛容な未来をつくりだせるのではないだろうか。​​​​​​​「ともに生きる」ためにみんなで知恵をしぼっていかねば。私も良い案を呈示できるように、 濃灰色の危機感をもって描いていく。 どこでも誰にでも「語りかける絵」が描けるようになりたい。 たいわが生まれる土壌をつくっていけるように。
2019年3月某日  高田陽子
Back to Top